邪馬台国

  邪馬台国(やまとのくに)  

 邪馬台国の本来の字は「山人国(やまとのくに)」です。

 これは、現在の宮崎県西都市(山の中)に彼らが拠点を作ったために、先住の倭人から「山人(やまと)」と呼ばれたことが由来しています。(先住の倭人は先にいた人という意味で「早人(はやと)」と呼ばれていたようです)

 我が国の原型となった国の名が「山人国」では何だか締まりませんので、阿毎古代史研究会では「大和国(やまとのくに)」と書くことにしています。

 

 大和国の中心となった宮崎県西都市は、地図を見れば分かる通り、海岸線からはかなり離れた場所にあります。

 通常、集落は川に沿って広がっていき、海と川とが交わる場所に集落の中心地が形成されます。倭国の他の主要国はそうやって作られているようですが、この大和国だけが、このような利便性の低い山間部に作られています

 これはなぜかというと、彼ら山人が倭国に渡って来た頃には、もうすでに沿岸部にはいくつもの集落が形成されており、それらを避けるようにして(もしくは逃げるようにして)拠点を作ったために、あのような場所になったものと思われす。(邪馬台国の元となった国は、最初は弱かったのです)

  大和国の建国  

 早人の集落を避けるようにして、現在の宮崎県西都市に「最初の国」が作られたようです。

 しかし、これはまだ大和国ではありません。

 この「最初の国」というのは、大和国の原型となる国のことです。

 この最初の国を作ったのは、神武天皇の兄である五瀬命の子孫たちですが、その最初の国に神武天皇の子孫たちが合流して、一大国家である大和国が建国されました。

 これがだいたい西暦160年頃のことです。

 この大和国が建国された当時は、倭国大乱と呼ばれる倭国中が争っている時期です。那国は強国である旧那国との戦争でかなり疲弊しており、この那国を助ける形で、大和国と那国の同盟が結ばれました。(浦島太郎と亀の関係です)

 そしてこの同盟が原点となって、古代倭国を平和へと導いた「大和連合」へと発展していきます。​

  大和連合  

 大和国を盟主とした大同盟が結ばれ、諸国は大和国と那国を中心とした「大和連合」を結成します。

 この大和連合の大同盟が発展して、後の倭国の大和朝廷、大和王権と呼ばれる不思議な統治形式に変化していきます。

 この統治が不思議なのは、中央集権的な絶対王権による統治ではなく、王とその周辺にいる豪族(阿毎族)の合議制のようなもので統治されていた点です。

 これは、現在の民主主義社会の感覚と似ているかもしれません。

 代表者の話し合いによって全体の政治の流れを決めていくというのは、この時代の他の王権国家のあり方を考えると、とても変わったものだったのかもしれません。

 これに最後まで抵抗したのが、旧那国です。

 旧那国は倭国の黎明期に権勢を振るった主要国としてのプライドがあったため、新興国の大和国の傘下に入ることをためらったのでしょう。

 おそらく、魏使が倭国にやって来た時、他に旧那国に組する国は倭国内には無かったものと思われます。

 この旧那国の抵抗も、卑弥呼の宗女である台与が女王となると収まったようで、「魏志 倭人伝」にも、「ついに、国中が平定された」と書かれています。

 この国の安定は、記紀では日本武尊が熊襲の王を倒したというエピソードで暗示的に語られています。

  女王による統治体制  

 謎の女王卑弥呼とは、那国の支配者である波多氏の血縁者だと思われます。

 そのため、形の上では倭国は大和国の支配下にありましたが、卑弥呼の時代には、実質的には那国の支配下にあったようです。

 だから、那国と敵対関係にあった旧那国は、大和連合結成後でも、その統属となることを嫌ったのです。

 これを解き明かす鍵は、飛鳥時代にあります。

 飛鳥時代は、崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺され、推古天皇が女帝となることで始まった時代です。

 蘇我馬子は、崇峻天皇が朝鮮半島の戦争に倭人を送り込もうとしたため、彼を暗殺しました。

 その後、蘇我馬子は自分の思い通りになる王を立てるため、推古天皇を天皇として推挙したのです。

 この時代の蘇我馬子は「嶋(しま)大臣」と呼ばれ、「嶋(倭国のこと)」の全権を掌握した大王(おおきみ)でした。

 つまり、推古天皇とは形だけの王であり、その実権は蘇我馬子が握っていたのです。

 ちなみに、厩戸皇子(聖徳太子)とは、蘇我馬子のことです。

 厩戸皇子のエピソードで、一度に十人の話を聞いて、正確にその話に答えたという話がありますが、あれは一種の「謎掛け」であり、あの話が暗示するのは、厩戸皇子は「耳が多い」ということなのです。

「耳が多いと」は、「多き耳(み)」つまり「大王(おおきみ)」という意味なのです。(ダジャレですね)

 そして、その話を踏まえた上で、推古天皇の漢風諡号(かんぷうしごう)は付けられました。

​ つまり、「推古」とは「古きを推し量る」という意味であり、いにしえの倭国時代も、このようなことがあったと言っているのです。

 その「いにしえ」というのが、卑弥呼の時代のことなのです。

​​ 彼女はおそらく台与と同じ墾りの国の出身であり、成人して大和国の王族(天皇一族)である孝安天皇の后となったものと思われます。

 そして孝安天皇の死後に子がいなかったために、彼女は女王となり、大和国の支配者となったものと思われます。

 これは外戚である那国の波多氏が倭国を支配するために用いた手段(摂政政治)であり、これは蘇我馬子のとった手法とまったく同じものです。

 外国ではあまり女王支配はありませんが、日本では古来より卑弥呼や神功皇后などといった女王支配が多いのは、天皇一族が王族であり、その外戚として阿毎族(波多氏や蘇我氏など)が存在するためだったのです。​(昔の日本は女の方が強かったなどといったことはありません)

  和の国  

 天皇一族が支配する大和国と波多氏が支配する那国の「和」によって、古代倭国は統治されていました。

 我が国の地域や社会における「和」を重んじる風土は、この時代にはすでに国の有り様として存在していたようです。

 こういった風土が昔からあったために、今でも日本人は温厚な民族なのだと思います。

 そして、世界中で我が国だけが千年以上続く正統王朝を持つのも、我々のご先祖様が、そういった和を重んじる生き方をし、国作りをしてきたからなのです。

記紀の暗号 第2章 大和連合

本書は、日本古代史の最大の謎である「邪馬台国」について、「魏志 倭人伝」の記述と記紀に隠されていた情報を元にして解き明かしていきます。
さらに当時の諸国の様子についても解説していきます。