投馬国

  投馬国(たいまのくに)  

 投馬国は、薩摩の地にあった国だと思われます。

「薩摩」の元となった字は「殺馬(さつま)」であり、これは「投馬」の字形を転じて名付けられたものだと推測されます。

 記紀の編纂時に、地名の多くが改名されましたが、このように手の込んだ改名をする理由は、古代の地名を隠すとともに、いつかはこの謎を解いて欲しいと考えたからなのです。

 記紀は古代の歴史を隠しましたが、謎を解くヒントもそこには残されているのです。

 

​ この国も那国と同じように旧那国から枝分かれして出来た国であり、言わば、那国の兄弟国のようなものだと思われます。

  当摩径(たぎまのみち)  

 投馬国は、記紀では当摩(たいま)と書かれています。

 時代が違う話ですが、履中天皇紀には、履中天皇が住吉仲皇子から命を狙われ、倭(やまと)へと逃げる場面があり、その時通った道として「当摩径」というものが出てきます。

 履中天皇は、途中で出会った少女に、「山の中には、たくさんの兵がいます。引き返して当摩径を越えなさい」と忠告されたため、少女の言う通りに回り道をして当摩径を通って倭(やまと)へと逃れます。

 この話は、実際にあった話かもしれませんが、もしかすると、この邪馬台国の時代の背景を伝えるための話だったのかもしれません。

 那国から邪馬台国へと向かう「通常ルート」は、踏み国と墾り国を通って九州の東岸を南下するルートだと思うのですが、この時代には何らかのトラブルがあったのか、そちらのルートは通っていないようです。

 そこで代案として出たのが「魏志 倭人伝」にある「当摩径ルート」だと思われます。

 このルートは、敵国である旧那国を避けるために、那国から有明海を南下し、当摩国の北端に一度停泊し、再び当摩国の中心を通って陸路で邪馬台国を目指すというものです。(通常ルートより、かなりの遠回りになります)

 このルートは船と水夫を用意せねばならず、さらに、あまり整備されていない九州南端の山道を通りますので、とてもたいへんなルートになります。

 実際は、不弥国まで来たところで、魏使は当摩径ルートへの変更を告げられ、邪馬台国へ行くことを断念したものと思われます。

 この時代の中国は、重い荷物を運んだり、長旅をする場合は馬やロバを使うのが当たり前だったようで、それを小舟に乗って一ヶ月、そしてそこから山道を一ヶ月歩くなど、当時の中国人には考えられないことだったと思います。(これは現代の我々が車も乗らずに遠出をするような感覚だったのではないでしょうか)

 こういう経緯があったので、踏み国までは方角や里数がちゃんと書かれているのに、それ以降の道のりは日数での表記に変わっているのだと思います。(日数表記は倭人からの伝聞で書いたものです。)