末盧国・伊都国

  末盧国(むろのくに)  

 魏使が対馬海峡を渡って倭国で最初に上陸したのは、現在の博多湾にあった末国でした。

 この末国は、現在の博多湾と同様に、九州の玄関口であったようです。

 国号の「末(むろ)」の本来の字は「牟(むろ)」です。

「牟」は「広い」という意味であり、「」は「塩地(沿岸部)」という意味を持ちます。

 つまり、「広い浜にある国」というのが、この牟国の国号の由来のようです。(ぴったりですね)

「魏志 倭人伝」の記述によると、この国は海、山、浜があり、領民は好んで海に潜って食料を得ていたようです。

 この時代の倭国は完全に水稲農耕時代に入っていますが、前時代から続く狩猟、採集、漁ろうといった前時代の生活スタイルも根強く残っていたようです。

  倭国の生活文化  

 この時代の倭国は、竪穴式住居に暮らし、衣服も布を裁縫せずに、ただ身にまとうだけのものでした。裸足で歩き、顔や体には入れ墨が入っていたようです。

​ この頃の倭人の姿は、中国の人からすると、東夷(東の野蛮人)に見えたことでしょう。

 しかしこの時代の九州は温暖で、衣服を縫製してまで着る必要が無かったものと思われます。そして、この時代の倭人特有の入れ墨は、蚊やブヨなどの衛生害虫を遠ざける効果があり、生きる上で必要なものだったのです。(体に塗る赤土も単なる化粧ではなく、防虫のためのものだったようです)

「魏志 倭人伝」によると、この時代の倭国にはまだ牛馬がいなかったそうですので、土地を耕すのも収穫物を運ぶのも、すべて人力でまかなっていたようです。(これは本当に大変です)

 普通は農耕と家畜飼育がセットで伝播するものですが、倭国は島国なので、家畜が伝わるのが遅かったものと思われます。

 おかげで魏使は、福岡県から宮崎県まで、徒歩で総重量二百キログラム以上ある皇帝からの賜物(鏡や布、刀など)を運ぶことになったようです。

  伊都国(いとのくに)  

 伊都国の本来の字は「韓人国(いとのくに)」と書き、この字の通り、韓地の人が集まってできた渡来人集住地であったようです。

 この国は邪馬台国の出先機関でもあったようで、韓達率(いーだぁのそつ)と呼ばれる役人が、北部九州の諸国の動向や、港から入ってくる人や物資を厳しく監察していたようです。

 韓人国はあった場所は、中世に九州の行政府である大宰府(だざいふ)があった場所です。大宰府は「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれるぐらいに、九州内での権力の中枢であった場所です。

 そもそも海が遠く、運河があるわけでもない利便性の低いこの土地に、大宰府のような条坊制の都市が作られたのは、その前身である韓人国が、古代からの九州行政府の中心であったからだと思われます。