対海国・一大国

  対海国(ついはいのくに)  

 この時代の対馬海峡近海のことを、中国では「海(かんかい)」と呼んでいたようです。

 その海(かんかい)を渡る最初の中継地として魏使が接岸したのは、「対海国(ついはいのくに)」と呼ばれる国でした。ここは現在の対馬です。

 この対海国の「対海」という字は、中国の文献の記述ルールに則って付けられた「当て字」と思われます。字自体には特に意味はありません)

 ですので、その当時の国号を考えるとき、この「ついはい」という「音」を頼りにして、本来の字を推測する必要があります。

 すると、この「対海」は「津韓輩(ついはい)」となります。(この当て字の解読法は長くなるのでここでは割愛します。知りたい方は、僕の本「記紀の暗号 序章 暗号解読」↓↓↓を読んでください。ここで詳しく解説しています)

記紀の暗号 序章 暗号解読

記紀(古事記・日本書紀)は古代日本の歴史を封じ込めた「玉手箱」です。
記紀には、よく読めば分かるように謎解きの仕掛けが施してあったのです。
その謎解きのための解読法を、本書では紹介しています。

 この「津韓輩(ついはい)」の意味は、「沖に住む韓地の人々」という意味ですので、ここには韓地から渡って来た渡来人たちが国を形成していたものと推測されます。

書(ずいしょ) 倭国伝」の記述によると、この島は「都斯麻国(つしまのくに)」と呼ばれています。(西暦600年頃)

 それが現在「対馬」と表記されるようになったのは、本来の島名である「津島(つしま)」という音と、「魏志 倭人伝」の記述「対海」の字が混ざり合って作られたからだと思われます。

  一大国(いーだぁのくに)  

 当て字の「一大(いーだぁ)」の本来の字は「韓達(いーだぁ)」です。

 現在は「韓」の字を「い」とは読みませんが、昔の人は韓地を「韓(い)」と呼んでいたようです。(厳密に言えば、この時代の倭人は漢字の読み書きができませんので、「韓」という漢字を意識せず、ただ「い」と呼んでいたというのが正しいと思います)

 この「韓達(いーだぁ)」は「津韓輩(ついはい)」と同様に、「韓地の人々」という意味です。

「達(だぁ)」は方言に近いものだと思われます。

 方言は国名にふさわしくないような気もしますが、この時代の倭地(九州側)の人々は、韓地の人々をある種の区別をしてそのように呼んでいたものと思われ、魏使に「この国の名前は?」と尋ねられた時に、いつも通りに「いーだぁん国ばい」と答えたのではないでしょうか。(想像すると笑っちゃいますね)

 さらに言うと、この時代の国名の名付けは、奴国の人が付けた国号が多いようで、奴国人の主観がかなり強く入っています。(だから「魏志 倭人伝」の国名には「奴」の字が多く使われているのです)

 ですから、韓達国も津韓輩国も、奴国から見て韓地の人が多く住む国という意味の名前が付けられているのでしょう。

「魏志 倭人伝」によると、韓達国も津韓輩国も米の耕作地にはあまり適していなかったらしく、韓地や倭地へ米の買い出し(布や干物などと交換)に行っていたようです。

  韓人(いと)  

 この時代の倭地(九州側)の人たちは、韓地の人たちを「韓人(いと)」と呼んでいたようです。

 現在の状況からも想像できることだと思いますが、この時代の倭地と韓地の人たちはあまり仲が良くなかったものと思われます。どうしても、言葉や文化のちょっとした違いも含めて、区別するものが出来てしまったのでしょう。

 邪馬台国も韓地からの渡来人の国であり、彼らの国が利便性の高い海辺ではなく山深い場所に作られたのも、そういった倭人からの排斥行動によるものかもしれません。